Masa安藤の「アラスカで独り言」



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エコ・コンシャス:人間と自然について

私はこれまで、環境問題に付いて深く考えを及ぼしたことがなかった。それはきっと、アメリカで環境問題を訴える団体の多くが急進的で、あるいは過激で、その存在自体が一様にポリティカルなため、私の性分には合わないという事が第一の理由だと思っている。

環境問題に付いて話をするときにはきっと「良い環境」とは「人間が生活を営む上で快適な環境(『快適環境』とは誰のための『快適』かetc)」なのかどうかや、「その地域に元々あった環境」とか「あるがままの自然」が、「良い環境」なのであるかどうか、など準備段階として考えることが多いような気がする。

人間にとって自然は「順応してゆくべきもの」そして「供に生きて行くもの」であり、そういった意味では人間は自然の一部であると信じている。

「人間」と「自然」を対義語と考えることこそが人間のエゴであり、自然を単なる事象、現象と捕える事は自分自身の存在さえも同様に見てしまう事に他ならない。自然は生きていて変化する。

地球はもとより宇宙も。つまり宇宙を構成している存在すべてが同様に生きていて変化すると考える。

他の動物と違い、自然の末端現象を少しコントロール出来るようになった人間は、それを科学と名づけ、自己の力を過信するところがあるかもしれない。しかしそれさえも大いなる自然の意図したことなのかも知れず、人の中にそういった傲慢な行動をとる人がいるのも(またその反対も)自然の為せる技なのかも知れない。科学とは「自然をコントロールするための研究」なのではなく「自然を理解するための研究」であると思う。

昔の人々は自然を経験と直感と伝統的技術を駆使して自分なりに理解し、自然と供に生きるための術を身につけていた。

その術に精通した一部の人々は天気や災害を予知したり、遠くからの人の来訪を、その方法や時間さえも見通すことができた。

しかし多くの人々にはそこまでの身体能力や精神的能力が開発されず、いつからかその替わりに自然を分析、計算することにより理解して行く方法が一般的になった。

どちらの方法も優れた結果をもたらすが、科学的方法が一般大衆を基準にしているために受け入れ易かった。それにより、人間の身体能力や精神的能力の低さをカバーする道具も作成され、皮肉にもそれらの道具は人間も身体能力や精神的能力を余計に低くする原因ともなったのではないだろうか。

人間社会を構成する上で、その秩序を保つためのシステムは大衆を基準にして作られている。科学技術の進化も一般大衆を対象に作られていて、それが人間の能力を一般的にしてしまう原因になったとしたら、教育システムを含むすべての社会システムは大衆的な人間を作り出すことにかけては威力を発揮するが、身体的能力や精神的能力、知能が著しく優れた人々を創出育成することはできないばかりか、そういった人間をすんなり受け入れるようには出来ていない様に思われる。それどころかきっとそういった能力のある人間にとっては、人間を守るためにあるべき社会システム自体が障害や大きな妨げになっているのではないだろうか。よってそういった人々にとって、この人間社会は非常に生活しにくい環境にあるといえる。

最近人間の動きを「身体意識」として「極意」または「技能熟達者の動き」を分析、計算することにより理解し、一般がこの動きを収得した結果として、「極意を得る」ことができるとする学者がいる。しかし上記のように人間を科学的環境に頼って生きることと伝統的技術と経験および直感に頼って生きることが、全く相反することでそこには一部も相和するところがないのであれば、彼の努力は報われないかもしれない。

科学は人が星や風、そして波を読んで航行する替わりに、コンパスを提供出来るのと同様、人が刀や素手で戦う替わりに銃やミサイルなどの発達した武器を提供することは出来るが、人が素手や刀で戦うための技術(身体能力を高めるための技術)をすべて提供することはできないと思う。

一応は目に見える身体の動かし方はもとより、目には見えない心の動きなどは心理学がどれだけ発達してもパターン化して捉えることが精一杯で、特定の環境にある各個人の心の動きに関して正確に捉えるのは、やはり今のところ科学ではなく、伝統的技術と経験、そしてなにより「鋭く鍛え上げられた直感」ではないかと思うのだ。

人間が人間として生きるための必然として科学が生まれ、今日までにある程度の発達を遂げ、不幸な中途段階にいる私たちは100%科学に頼ることもできず、またそれに頼らずに生きる術(身体能力など)も失ってしまい、自らをうまくコントロールできずにもがいている様に思えるのだ。それでもまだ多くの人々は昔日の伝統的方法は全く役に立たないか、一部の変人(または能力のあるもの)にしか役立たないものとして捨ててしまった。

また他の多少の人々は、ものの真の価値を見抜く目をなくし、ただ「伝統」という名の元に形骸化された中身のないものを、大切に保存しているだけになってしまった。それに反して科学は発展を続けながらもその途上で多くの益と同じだけの害を人間に与えてきている。

人間が自然の一部である以上、それ以上何を自然に望むことがあろうと思うのだが、何故か人は自分が自然の一部であることを忘れる。それを思い出すために自分が大きな自然の中に入りこんで行くことを必要とすることがある。

例えばアラスカに来る多くの人達は「自然」のなかで自分を見つめ直し、自分を取り戻す。または自分が自然の一部であることを発見する、自覚する、または再確認する。それが行われてこそ始めて自分にやさしくするには、自然に優しくする必要があるということが分かり、逆に自然にやさしくするためには自分にも優しくなければならないことを自覚するのではないだろうか。

そうすれば人々は自ら「環境」という問題に付いて考えるようになるのではないかとおもう。

エコ・コンシャスとはつまりそこから始まるのではないだろうか。
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by 814690 | 2004-01-19 14:51


アラスカ生活mo30年! アラスカが大好きで、そのアラスカの素晴らしさを一人でも多くの人に知ってもらいたいと願ってやまない男、しろくま代表:Masa安藤のブログです。
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