Masa安藤の「アラスカで独り言」



<   2007年 04月 ( 1 )   > この月の画像一覧


春だ!夏の旅行を考える時期だ!なのに私は何を考えているのでしょう。

紀元前6世紀ごろに編纂されたというイソップの寓話のひとつである「ウサギと亀」にある教訓はこれまでも世界中で結構いろいろな形で話がされてきています。
日本では石原和三郎の作詞による童謡ができてからはこれに即して話を(絵本などで)紹介する人が多いですが、ギリシア語での原典は消失しているらしく、現代に語り継がれているのは古代から中世にかけてラテン語で編纂されなおしたものと言われています。


ですからから詳細はそれ以降の人々が適当にアレンジしても不思議はなく、ゴールは歌の通り小山の麓だったり、頂上だったり、亀が勝負を挑んだと言うものもあればウサギがそういったものもあり、金を賭けるという童話にならない話もあればゴール後も亀がウサギを嘲笑したり、ウサギが亀に謝ったりとさまざまなバリエーションがあります。



しかし詳細を除くとこの話は「ウサギと亀が競争をしたが、ウサギが途中で昼寝をしてしまったため、休まず走り続けた亀が勝った」ということです。日本にこの話を紹介されたときの教訓は敗者・ウサギ側の視点から見た「油断大敵」だったり、勝者である亀側から見た「継続は力なり」だったり、「成せばなる」だったりいろいろです。

またこの話に続きをつけて新たな展開と新たな教訓をつけようとするケースもあります。その中には陸亀:tortoiseである亀を海亀:turtleと混同して、陸対海の戦いとか、この亀を竜宮城の亀と同一視したりする明らかに間違った解釈もあります。

まあこれは米語ではどちらもturtleということがあるので仕方ないともいえ、外国にも同様な解釈も見られます。しかし、特に米英ではこの話の教訓(モラル)は亀、つまり勝者の立場から見た「遅く着実なものが勝つ」という単純なものになっている場合がほとんどで、イソップの寓話も本来はこのストレートなモラルが真意だと私も推測しています。



ウサギに肩を持つものの中に「やさしいウサギさんはかめが追いつくまで待っていたのだが、その間にうっかり寝てしまったのだ」と言う解釈をするものもいました。また「ウサギは亀を見て戦っていたが、亀はゴールを見て戦っていたから勝ったのだ」というかっこいい解釈をつけるものもいます。

また、「亀はずるい」とか「亀はどうしてウサギを起こさなかったのか」などと思う人もいるようですし、特に最近の日本では高度成長期が終わり、激化した競争社会の中で癒しを求める人が多いため、「ウサギさんを起こしてあげましょう」などの競争を否定した解釈をしたがる人も多くなってきているようです。



学者の中にはありがちな解釈ですが、この話を古式の宗教で競争によって神意を占った事実に基づき、「古い素朴な行動様式の仮託である」と解釈して、「競争中に眠ったウサギの敗北は、課せられた禁止事項を破った者への懲戒」と説くなども見られます。



現代の宗教的観点からの解釈もされています。
仏教的観点でいうと例えば道元禅師が「動静を大衆に一如す」「群を抜けて益なし」と示したことを例に挙げて「他人が寝ている間に努力をして、人よりも早くゴ-ルに達しようとするのは、感心なようなことであるけれども、実はぬけがけの功名をねらうような根性」と説くお坊さまもいます。この理論には「みんなが起きているときにウサギが寝ていたのであって、他が寝ているときに亀が寝ずに努力したと言うわけではない」という意味で理論的には決定的な欠陥があるのです

が、そこは理論的でないところが仏教であるわけで、仏教的に言えば、「亀もそこでウサギと同じだけ休息時間を取ればよかったかもしれない」となりえるわけです。そしてそこから掘り下げてゆくと、「競争の意味などどうでも良いのだ。どちらも自分の欲する生き方で生きてゆけばよい。寝ることも走ることもどちらも仏法修行である。」というもっとむちゃくちゃなというか仏教らしい説法をする坊さまもいらっしゃるのです。

例えばちょっとかっこいい言葉で言うと、「『禅』的観点でいえば、『苦』ばかりの多い人生において、やすらぎや共感、自然に抱かれることの喜び、人間存在そのものに対する感動なるものを認識していく、つまり、『今』のいのち、『今』の自分の花を精一杯咲かせていく、それが仏法修行だ」と説くわけです。だからウサギはゆっくり休んで満足、亀は勝利を得て満足と言うことにもなる。
こうなるともう話は「ウサギとかめ」でなくても「ありとキリギリス」でも何でも良くなってしまいます。仏教はそういった普遍的な解釈をするので厄介ですが、だから面白いともいえます。



ではキリスト教的視点からはどうでしょうか。
こちらもいろいろありますが、やはり勝者である亀を称え、ウサギの傲慢な気持ちを諌めるものが圧倒的に多いです。例えば以下です。

聖書も、人生というのはマラソンのようだとして、次のように言っています。

「・・・私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい・・・」

(ヘブル人への手紙12:1~2)

(このようにキリスト教は競争を認めています。だから現代自由資本主義の根源が市場原理主義にあるとされるのも納得できます。)


さて、ここで「亀がウサギを起こすか起こさないか」についての議論があります。

資本主義的考え方で行けば「ウサギは、自分の意志で、亀に対して油断して昼寝をしたのですからそれが競走であればこそ、相手の気のゆるみは、ラッキーと思うこそすれ、決して狡くはないのでは?」という意見が非常に一般論と思います。「相手に勝つこと」が競争の目的なのであればまさにそう思うのが普通でしょう。

ウサギが昼寝をしていたら、それをラッキーと思ってそのまま走り続け勝ちを得る者と、ちゃんと闘ってほしいと思ってウサギを起こしたが故にさっさか先に行かれてしまって墓穴を掘った形になって負けてしまう者とを比べると、現代資本主義社会の価値観では後者が明らかに「あほ」です。

しかし亀が何のために戦っているのか、何を目指しているのか、つまり「どうして闘うのか」を考える時、私は「自分が競争している相手と正面切って戦ってこそ戦いの意味がある」と考えます。そして相手の力が自分とほぼ同じまたは自分より上であるとき、自分の力が最大限またはそれ以上に引き出される可能性がある、そしてそれが「自分と闘う意味」であり「自分と闘う時」だと思うのです。



競争の場合は「勝つ」ことが目標ですが、人間として「闘う」場合は「どうやって勝ったか」がより大切な意味を持ってきます。
「自分が休まずに走ったから勝った」というのは立派な勝ちですのでそれは立派といえましょう。が昼寝している相手と競争して勝って、自分はその競争に本当に勝ったといえるのかどうかです。お互いに全力を尽くして闘って、勝ったか負けたかの結果を出すことが、勝者にとっても敗者にとっても、次の自分との闘いの指標となり、進歩となって行くのではないかと思うのです。
もしその闘いにおいてお互いが死力を尽くした結果として、自分の能力以上のものをお互いに引き出せたとしたら、勝った負けたの結果に関係なく、この「闘いの意義」をそこに見出せると思います。



「武士の情け」というと古臭いかもしれませんが、「相手と五分で戦うこと」を常としていた者は戦いで相手の刀を叩き落しても、相手と五分の戦いをするために、相手が刀を拾うまで待ったと言います。



「自分と闘う、とか自分に勝つ」という高レベルな考えを大昔の価値観、われわれと全く違う文化背景で作られたイソップの寓話に持ち込むこと自体にいささか無理があると思うのですが、北極圏でオーロラを待ちながらこうやって考えをめぐらせるのも楽しい余暇の過ごし方なのです。
[PR]
by 814690 | 2007-04-03 11:44


アラスカ生活mo30年! アラスカが大好きで、そのアラスカの素晴らしさを一人でも多くの人に知ってもらいたいと願ってやまない男、しろくま代表:Masa安藤のブログです。
カテゴリ
全体
未分類
以前の記事
フォロー中のブログ
リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧