Masa安藤の「アラスカで独り言」



節度について

人がかつて自然から直接その恵みを受けていたころ、求めすぎること、取りすぎることは日常生活の破綻(つまり食べるものがなくなってしまうこと)を招いたため、人々は「節度」をもって自然と付き合い、バランスの取れた生活形態を営むことを学んだと聞いています。

高度な技術を得ようとするハンター達は、狙った獲物を確実に取るための知識と技術を身につけると同時に、その技術を乱用せず乱獲をしないことが「狙った獲物を確実に取る」ための必要条件であるということを学んだのでしょう。それは将に武術を極めた武道家がその技術を平常使うことを諌めていたことと同じく「節度」という考えに基づいていたと私は理解しています。

貨幣経済が入ってからも日本では武家社会の影響で、古来からの美意識である「節度」を持って良しとする傾向にありました。その頃の「教養」ある人達は皆「節度」があり、人々から敬われていた人達は経済的な貧富ではなく「節度を持った教養のある人」であったようです。「衣食足りて礼節を知る」といいますが、昔は「衣食」がおぼつかぬ程の貧困生活をしていても「礼節」を持った人がかなりいて、それらの人々は周囲から尊敬されていたと聞いています。

それが現代社会になり、「節度」に対する意識がいつのまにか薄れて行き、その対極にある考え方が一般的になりました。「金=豊かさ=成功者」というような構図が見られるようになり、人々は金銭的に豊かな人々を成功者と呼び、敬う(または羨む)ようになったように思います。人々は依然としてほとんどの食物や生きるために必要なものを自然から得ていて、それが限られたものであるということは変わらないのにもかかわらず、「金があればあるほど欲しいものが無限に手に入る」という考え方がほぼ定着しているように思われます。

人々は金銭的な豊かさを求め、そこに人生の理想を描き、「どんどん売って(働いて)、どんどん金を儲ける」ことは「良いこと(善)」、とは見られても「悪いこと(悪)」と考える人は誰もいないようになったように見えます。

お金は人が作るのですから、使える以上に作る事は可能。戦争をするのに金が要るからといって、どんどん作って使って自然を破壊する事も可能。無尽蔵に思われる金が有限な自然の恵みを奪い、自然はどんどん破壊されて行きます。そこには「節度」という人間の欲望への抑止力は全く存在しないように見えます。

アラスカに来る人々の中には物質的な豊かさではなく、精神的な豊かさや自然の豊かさ、そこで感じるエネルギーの濃さなどを求める人達が依然として存在します。私はその現実に救いを見いだしているのですが、それらの人々の中にも「節度」の差があることも確かです。

個人の感情表現のし方、感動の表し方はもちろん個人で差があるのは当然のことですが、オーロラのような自然現象に対しても、オリンピックやサッカーの試合を見ているときと同じ様なリアクションが目立つようになってきたのは、人々の感情表現のし方が変化してきたのだと思います。これは「感動は気持ちの良いことだからどんどんやっていい」という意識から来るものと思われますが、そこに「節度」という概念が薄れていることが見て取れます。

古の時代に詠まれた和歌や書物などを見てわかるとおり日本人は元来気持ちを率直に表すことが得意だったように思われます。それだからこそ自分の気持ちが爆発してしまわないよう、感情を溜めることができる心を持つことの大切さも理解していったのではないかと思います。

日本古来の花鳥風月を愛でる「じーん」と心に染むような感じ方は、現行メジャーな感動表現である「うっわ~!すっげー!!」という絶叫型に取って代わられているようにも見えます。

本来武道であるはずの競技試合で時折見られるガッツポーズは良く言えば率直で純粋な感情表現ですが、武道的見地から言えば粗野な思慮を欠いた振舞いであり、「礼儀」を欠いた「節度」を知らぬものの態度とも言えます。 

「礼節」という日本古来の道徳的・美意識的観点からすれば、老若男女のほとんど全てが絶叫型の感情表現をしてしまう現行の姿は明らかに文化的にレベルダウンしていると考えてしまうのです。

節度を持つということは武術では「戦う相手に対する感謝の念、勝者の敗者に対するいたわりの心、敗者の勝者に抱く畏敬の念」なのだと思います。これは武の戦いが「生死を賭して(現在では「生死を意識して」というべきでしょうか)」行われるものだからこそ育つ精神・文化であり、スポーツやショーには必要のない、というか邪魔にさえなるものでしょう。

感情が大きく動いても直接的な感情表現を心で抑制し、表現を穏やかにしていると、心の中に大きな思いを溜めることが出来、それが大きなエネルギーへと変わるのではないかと考えます。2001年のテロ以降、最高に厳しい状況にある弱小旅行手配会社「HAIしろくまツアーズ」ですが、そういった状況だからこそ今一度「節度」という言葉について考え、生きてゆきたいと思っています。
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# by 814690 | 2005-10-17 14:36

「冒険」という事について

私達はスペシャリスト・オブ・アラスカン・アドベンチャー(アラスカ冒険旅行の専門家)を自負しています。冒険とは「リスクを伴う行動」という意味だとおもいます。ということは「冒険旅行」とは「リスクを伴う旅行」ということです。私が始めてアラスカに来た頃は、私にとって始めての海外旅行だったことも、情報の少ないアラスカに来ること自体も、すべてが「冒険的」でした。

アラスカという田舎にある、ちょっとかわいい名前の、でも全く無名の旅行手配会社に自分のアラスカ旅行の日程の手配を任せてしまうことでさえも、人によってはリスクと思えるかもしれません(もちろんHAIしろくまツアーズをご自身の手配会社として選択されることは冒険ではなく、最も安全で確実なチョイスの一つと自信を持って言えますが、旅の目的地にアラスカを選択すること自体はある程度「冒険的」要素が含まれることは否めません)。

冒険におけるリスクの程度は各個人で差があり、マッキンリー単独登頂や自転車や徒歩での冬季北極圏行など死の危険を伴うものから、ベアウォッチングツアーなど野生動物に間近で遭遇するかも知れない危険のあるもの、そして単にバスや鉄道の乗り換えがスムーズにできないかもしれないという程度のリスクまでいろいろです。それに一般的には「冒険」といわれる登山でさえ、例えば、「酸素を吸って前後をベテランのクライミングガイドによって固くガードされながら六千メートル級の山を登ること」よりも、「一人でアンカレジ空港からバスと鉄道を乗り継いでアラスカ州内を旅すること」の方が冒険的であると言えるかも知れないのです。

衛星電話、GPS、インターネットが発達した今日、リスクを伴う旅行は以前より飛躍的に少なくなり、予め決められた日程を確実に消化して行くだけの、ハプニングのほとんどない、安全で確実な旅が当然とされる様になってきました。それは安心、安全、確実をスリルと感動と興奮を犠牲にして得たものとも言えます。安心、安全な「冒険」はありえないのですから、「冒険旅行」はもはやほとんどの世界に存在することさえ難しくなってきているのかもしれません。

すべてが計算され、御膳立てが整い、予定されているものすべてが見られ、手に入り、味わえる、アドベンチャー・トラベルとは名ばかりの安心、安全、確実なバーチャル・アドベンチャーをアラスカに求めている人達はあまりいないと思われます。

アラスカへの旅がかろうじて「冒険旅行」といえるのはそれが「大自然への旅」だからでしょう。科学技術の発達した文明社会から離れれば離れるほど自然を感じることができます。空の色、風の匂い、大地の振動、木々の波動、水の音、そしてツンドラの大地に生息する野生動物達の息吹は、自分が自然と一体化した時に自然と身体に染み入って来ます。自分が自然を感じるというより自然が自分を感じてくれていて、それが自分の中ではっきりと感じられる、つまり「自然と融合したという実感」。必要最低限度の文明の利器を持って自然に入る事を頂点として、各個人のレベルにあったスタイルでアラスカを旅することがそれぞれにとっての「冒険旅行」となると思うのです。

冒険旅行は一度行くと病み付きになるものです。本当の冒険に近道はありません。レベルの高い冒険には経験と妥協しない姿勢が必要なのです。 次の旅の目的地をアラスカに定めた人々が、ドキドキ、ワクワクしながら自分だけの冒険旅行をしてゆく姿を見て、一緒にドキドキ、ワクワクして行けることは私達にとって大きな楽しみとなっています。あなたの次のアラスカン・アドベンチャーの日程作りのお手伝いをさせてください。
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# by 814690 | 2004-11-10 14:39

感謝の気持ちがおいしさを増す?

水の研究者によりますと人間は身体の70%が水なんだそうです。若者はもっと水分が多く、年を取ると少なくなり、50%以下になると死んでしまうのだそうです。道理で汗をかく訳です。野口体操の野口三千三という方の本には「人間は水の入った袋」のようなものだとありました。なるほど、身体は重くて動かすのが大変な訳です。何しろ「水の入った袋」ですから。

最近お会いした波動研究家から、彼が水の結晶(氷)の写真を撮っているということを聞きました。世界各地の天然水や水道水、加持祈祷を施した水や罵詈雑言を浴びせた水、絵画を見せたり音楽を聞かせた水では結晶の出来方が違い、「水にはメッセージが隠されている」のだそうです。美しい天然水、そして加持祈祷や感謝の言葉を聞かせた水からは美しい結晶の写真が撮れるのに、悪口を聞かせた水は汚染した水同様、結晶がうまく形成されないということでした。

きれいな水で点てたお茶は元々美味しいのでしょうが、点てる人が「おいしくなぁれ」と願っているともっとおいしくなります。それにお茶を頂く人が「あ~ぁ美味しそうだ。きっと美味しいぞ」といって飲めば、それが水に伝わってもっとおいしくなるのでしょうか。この人の言う通り美しい水、きれいな水、そして感謝された水が美しい結晶を作り、汚染された水や塩素消毒された水からは結晶がうまくできないというのであれば、「水の入った袋」である私達の身体の水が美しい結晶を作ような水となる為には、イオンやミネラルを含むナチュラルミネラルウォーターなどの良い水を飲むことも大切ですが、自分の身体の(水分の)為にお祈りし、又感謝し、自分を好きになって「ありがとう」と声に出して言ってあげることも非常に大切なことなのかもしれません。科学的に水がおいしくなるかどうか証明できるのかどうかは私には分かりませんが、飲む側の心が平穏で感謝の気持ちに満ちているときっとおいしいものがおいしく感じられるのではないかも思います。

アラスカにいると自分自身の身体が、大地から伝わる振動や自分の身の内から沸きあがる水の波動を感じ、すべてを繋いでいるのは水で、そして自分はその一部なのだということを実感します。これはつまり人間がやはり自然の一部だということに他ならないのです。「自然」の中では自分の直感を取り戻すことができ、自分の中の自然(水)を感じることができるのです。もし自分でそれらを感じることができなくなってしまっていたら、出来るだけ早くアラスカにお越しになることをお勧めします。
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# by 814690 | 2004-10-01 14:42

ガイアシンフォニー及び故・星野道夫さん

最近、ガイアシンフォニーという自主上演の映画の事が良く話題になります。この映画に付いては、お客さんやフリーダイバーの従姉妹から聞いたことがありましたが、私はアラスカに22年住んでいるため、日本でしか上映しないこの映画を見ることができません。いつかアラスカでも是非上映していただきたいものだと思っています。ただこの映画を見て、アラスカに思いをはせてくれる人々がいるのは私にとっては嬉しいことです。

うちはHAIしろくまツアーズ(はいしろくまつあーず)という一見ふざけた社名のため「白熊を見に行くツアー」についての問合わせが来ることがあります。この映画の影響もあって最近日本で良く話題になる写真家の故・星野道夫さんが撮っているしろくまの写真の一部はアラスカのほかの写真家のグループと一緒にカナダのチャーチルで撮ったものと推測していますが、アラスカではバローなどの北極海沿岸部で時々しろくまを見かけます。

この映画の監督が龍村仁という方であるということも実は2003年の11月に知ったばかりです。それはこの方が書かれた映画の制作に関する本で、特に星野さんにまつわることが書かれている本を知り合いの方が贈ってくださったからです。

この本には驚かされました。それは最近やっとまとまりを見せてきた私自身の人生上の価値観というか生き方と言うものとほぼ同じ事がこの本に書かれていたからです。

私は1982年ころからアラスカにきていますので星野さんは私よりも2年ほどアラスカ在住が長いことになります。私は星野さんが有名になってから一度空港で見かけた(取り巻きが多かったので敢えて挨拶には行かなかった)だけで、正式に会ったことは一度もありません。でも彼が無名時代から共通の友達や知り合いがかなり多くいて、彼らから互いの事は聞いていました。実は私はアンカレジの大学院で人類学とアートを少しやっていて、写真も少しだけかじったので、その関係で星野さんの知り合いを何人も知っていましたし、人類学では昔のネィティブの間での「熊」の持つ意味などを調べました。カラスについての伝説なども、日本のヤタの大ガラスと共通する所があり、少し調べたのですがあまりにも途方もない研究だったため途中で目標を変更しました。

このように彼とは直接接点はありませんでしたが、並行して似たような所を移動していたような気がします。だから、この本を読んでさらに間接的にいろいろ関わっているのだとおもいました。そういった意味で(こじつけっぽいですが)、龍村氏とも広い意味で間接的に関わっているのかもしれません。それは私が星野さんと間接的に関わっていただけでなく、ジャック・マイヨールとも本当に間接的にですが関わっていたといえるからです。

それは私とほぼ同じ年の従姉妹のダイバーを通してです。彼女はジャック・マイヨールの最後の愛弟子といわれていて、彼に名前をつけてもらったというダイビングショップを東京都、小金井市で経営しています。http://www.bigblue-ds.jp/aa_jack1.html 自身ではアプネアの世界大会に出たり、ハワイの大会で好成績を残したりしている現役のダイバーです。私は映画「グラン・ブルー(ビッグ・ブルー)」さえも見ていないのですが、以前彼女のうちに遊びに行ったときに彼女からジャック・マイヨールの話をずいぶん聞かされ、呼吸法の話等は武術の道にも通じると思い興味深く聞いていたことを思いだします。

といった感じで、ガイアシンフォニーも故・星野道夫さんも直接知らない私ですが、人生とは不思議な縁が絡み合って出来ているものです。
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# by 814690 | 2004-05-19 14:46

エコ・コンシャス:人間と自然について

私はこれまで、環境問題に付いて深く考えを及ぼしたことがなかった。それはきっと、アメリカで環境問題を訴える団体の多くが急進的で、あるいは過激で、その存在自体が一様にポリティカルなため、私の性分には合わないという事が第一の理由だと思っている。

環境問題に付いて話をするときにはきっと「良い環境」とは「人間が生活を営む上で快適な環境(『快適環境』とは誰のための『快適』かetc)」なのかどうかや、「その地域に元々あった環境」とか「あるがままの自然」が、「良い環境」なのであるかどうか、など準備段階として考えることが多いような気がする。

人間にとって自然は「順応してゆくべきもの」そして「供に生きて行くもの」であり、そういった意味では人間は自然の一部であると信じている。

「人間」と「自然」を対義語と考えることこそが人間のエゴであり、自然を単なる事象、現象と捕える事は自分自身の存在さえも同様に見てしまう事に他ならない。自然は生きていて変化する。

地球はもとより宇宙も。つまり宇宙を構成している存在すべてが同様に生きていて変化すると考える。

他の動物と違い、自然の末端現象を少しコントロール出来るようになった人間は、それを科学と名づけ、自己の力を過信するところがあるかもしれない。しかしそれさえも大いなる自然の意図したことなのかも知れず、人の中にそういった傲慢な行動をとる人がいるのも(またその反対も)自然の為せる技なのかも知れない。科学とは「自然をコントロールするための研究」なのではなく「自然を理解するための研究」であると思う。

昔の人々は自然を経験と直感と伝統的技術を駆使して自分なりに理解し、自然と供に生きるための術を身につけていた。

その術に精通した一部の人々は天気や災害を予知したり、遠くからの人の来訪を、その方法や時間さえも見通すことができた。

しかし多くの人々にはそこまでの身体能力や精神的能力が開発されず、いつからかその替わりに自然を分析、計算することにより理解して行く方法が一般的になった。

どちらの方法も優れた結果をもたらすが、科学的方法が一般大衆を基準にしているために受け入れ易かった。それにより、人間の身体能力や精神的能力の低さをカバーする道具も作成され、皮肉にもそれらの道具は人間も身体能力や精神的能力を余計に低くする原因ともなったのではないだろうか。

人間社会を構成する上で、その秩序を保つためのシステムは大衆を基準にして作られている。科学技術の進化も一般大衆を対象に作られていて、それが人間の能力を一般的にしてしまう原因になったとしたら、教育システムを含むすべての社会システムは大衆的な人間を作り出すことにかけては威力を発揮するが、身体的能力や精神的能力、知能が著しく優れた人々を創出育成することはできないばかりか、そういった人間をすんなり受け入れるようには出来ていない様に思われる。それどころかきっとそういった能力のある人間にとっては、人間を守るためにあるべき社会システム自体が障害や大きな妨げになっているのではないだろうか。よってそういった人々にとって、この人間社会は非常に生活しにくい環境にあるといえる。

最近人間の動きを「身体意識」として「極意」または「技能熟達者の動き」を分析、計算することにより理解し、一般がこの動きを収得した結果として、「極意を得る」ことができるとする学者がいる。しかし上記のように人間を科学的環境に頼って生きることと伝統的技術と経験および直感に頼って生きることが、全く相反することでそこには一部も相和するところがないのであれば、彼の努力は報われないかもしれない。

科学は人が星や風、そして波を読んで航行する替わりに、コンパスを提供出来るのと同様、人が刀や素手で戦う替わりに銃やミサイルなどの発達した武器を提供することは出来るが、人が素手や刀で戦うための技術(身体能力を高めるための技術)をすべて提供することはできないと思う。

一応は目に見える身体の動かし方はもとより、目には見えない心の動きなどは心理学がどれだけ発達してもパターン化して捉えることが精一杯で、特定の環境にある各個人の心の動きに関して正確に捉えるのは、やはり今のところ科学ではなく、伝統的技術と経験、そしてなにより「鋭く鍛え上げられた直感」ではないかと思うのだ。

人間が人間として生きるための必然として科学が生まれ、今日までにある程度の発達を遂げ、不幸な中途段階にいる私たちは100%科学に頼ることもできず、またそれに頼らずに生きる術(身体能力など)も失ってしまい、自らをうまくコントロールできずにもがいている様に思えるのだ。それでもまだ多くの人々は昔日の伝統的方法は全く役に立たないか、一部の変人(または能力のあるもの)にしか役立たないものとして捨ててしまった。

また他の多少の人々は、ものの真の価値を見抜く目をなくし、ただ「伝統」という名の元に形骸化された中身のないものを、大切に保存しているだけになってしまった。それに反して科学は発展を続けながらもその途上で多くの益と同じだけの害を人間に与えてきている。

人間が自然の一部である以上、それ以上何を自然に望むことがあろうと思うのだが、何故か人は自分が自然の一部であることを忘れる。それを思い出すために自分が大きな自然の中に入りこんで行くことを必要とすることがある。

例えばアラスカに来る多くの人達は「自然」のなかで自分を見つめ直し、自分を取り戻す。または自分が自然の一部であることを発見する、自覚する、または再確認する。それが行われてこそ始めて自分にやさしくするには、自然に優しくする必要があるということが分かり、逆に自然にやさしくするためには自分にも優しくなければならないことを自覚するのではないだろうか。

そうすれば人々は自ら「環境」という問題に付いて考えるようになるのではないかとおもう。

エコ・コンシャスとはつまりそこから始まるのではないだろうか。
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# by 814690 | 2004-01-19 14:51


アラスカ生活mo30年! アラスカが大好きで、そのアラスカの素晴らしさを一人でも多くの人に知ってもらいたいと願ってやまない男、しろくま代表:Masa安藤のブログです。
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